澤山精八郎の人物像
澤山精八郎は孝心厚く、質素倹約を旨としていました。
――私は毎朝の食事は年中薩摩芋ですましています。これは麦と芋とを日々の食事とし、年に数度の白飯を無上のごちそうと天にも昇る心地して頂いた幼少時代を忘れぬため、且つは、心の驕りを戒めるためにほかなりません。
澤山精八郎は商売について、こう答えています。
――私はいつもそう思うのですが、商売の秘訣は何かと問われたら、それは人の喜ぶようにしてやることだと答えます。私は外国船に石炭を売るとき、見本よりも現品はさらに上等の物をと心掛けてやりましたが、これが いつしか外国船の信用を博して、澤山の石炭なら間違いないと喜ばれました。
人はただ、花と実だけをみて、その過程を見ません。私が経てきた半生の労苦を察せず今日の有様のみを見てくれますが、決して私の本意ではないのです。(昭和6年(1931年)12月 大村地方郷土研究会発行『郷土読本』)
澤山精八郎は安政2年(1855年)11月3日、大村藩士、澤山熊右衛門の長男として、長崎県東彼杵郡大村(現在 の長崎県大村市)に生まれた。
明治維新後、長崎市に移り、幼時は「五教館」(大村藩藩校)に学び、さらに「広運館」(長崎府設置)に進んで英語を学んだ。その後、長崎の米国領事館(当時、長崎市南山手乙5番に所在した)、つづいて長崎県通訳を勤めた。在勤中、明治10年2月西南戦争が勃発したので、大村藩勤王軍に参加し出征したが無事帰還した。そのころから、実業家になることを志し、明治12年(1879年)23歳の時、北海道函館に赴き、同地の輸出業「楽産商会」 に入社し、英語のみならずロシア語を覚え、貿易実務の習得につとめた。酷寒の地での務めは極めて厳しいもの であったが、良く艱難に耐えて同18年(1885年)には支配人に昇進した。
明治18年(1885年)9月、7年ぶりに函館から帰崎し、父熊右衛門が長崎市大浦郷で営む船舶給水、艀運送、 帆船運送の家業を継承した。この時の屋号は澤山商店と称していた。
当初は、西彼杵郡外海方面や五島などとの離島との交易をはじめその後業績発展に伴い居留地外国商館と提携し て石炭の販売に専念した。
明治21年(1888年)4月から、佐賀県唐津炭の出炭増強に協力し、上海、香港、マニラ方面向けの外国船に石炭の積込を開始した。なお、英国人ハミルトン・ガードナー(元三菱石炭炭鉱業高島鉱業所の開拓者で貿易業者)の知遇を得て同氏の斡旋によって英国東洋艦隊の燃料、カージフ炭の積卸、一手販売の約定を締結し信用を高めていった。
明治31年(1898年)4月に米西戦争が勃発した。長崎は米国の兵站基地となり、米国の艦船が毎月30隻以上入港し、燃料炭の供給や給水を一手に引き受けて商売も大いに繁盛した。澤山商店も隆盛となり、次第に財をなしていった。
明治37年(1904年)2月、佐世保鎮守府の御用達業者として特命を受ける。
精八郎は明治38年(1905年)ノルウェー船「プロスパー号」(Prosper)を購入し、「久満加多丸」と改名した。船名は父、「熊右衛門」と母「かた」にちなんで命名したといわれる。
澤山商店においては、本船が初めての鋼船であり、海運業開始の端緒となった。
船種:貨物船 主機: レシプロ
総トン数:1343.08トン、速力(航海):8.5ノット
重量トン数:1850英トン、資格:一級、近海
製造者:英国 キャンベルタウンシップビルディングカンパニー(The Campbeltown Shipbuilding Company )
精八郎は同39年(1906年)1月、長崎市玉江町3丁目8番地(現在の長崎市元船町付近)に土地を購入し、洋館事務所を新築して、大浦元町1番地から事務所を移転した。屋号も澤山商店から「合資会社澤山商会」と変更した。 なお、明治43年(1910年)11月には、市内大浦町11番地の土地家屋を購入し、合資会社澤山商会事務所を玉江町3丁目から移転した。
その後、合資会社澤山商会は燃料炭の販売、船舶給水、艀運送を続け、昭和7年(1932年)10月事務所を千馬町 1丁目4番地(現在の長崎市出島町付近)に移し、大阪商船、日本郵船など有力船社の船舶代理店業務を引き受けて繁忙を極めた。昭和9年(1934年)10月、「株式会社澤山商会」に改組し、初代社長に澤山市松が就任した。
澤山グループの社章(ロゴマーク)の始まり
澤山グループのロゴマークの「S」は澤山のイニシャル、菱形は「山」を表しています。制定されたのは明治27年(1894 年)、長崎市大浦元町に営業所を構えた頃といわれ、当時保有していた給水船、曳船、艀船等にこの社章が入っ た社旗(白地に赤で記されたもの)を翻しておりました。また関係会社であったかつての澤山汽船のファンネル マークとして広く知られておりました。この社章は、創業者澤山精八郎の『人の喜ぶようにする』精神を代々受け継ぐべく、お客様や社会に対し『喜んでいただけるもの』『喜んでいただけること』を提供し続けるという私たちの精神を示したものです。